祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

愛する人を失った悲しみに終わりはない 『永遠の別れ』を読んで

こんばんは、ナユリゼです。

 

このところ読んでいた本

 

『永遠の別れ 悲しみを癒す智恵の書』

(エリザベス・キューブラー・ロス&デーヴィッド・ケスラー/上野圭一:訳/日本教文社

 

について書いてみます。

 

タイトルの通り、内容は

愛する人を亡くした時の悲嘆が実際はどのようなもので、

どういったプロセスをたどるか、

といったことなのですが、

(プロセス、と言ってしまうと誤解を生むので避けたいのですが、

なかなかほかに良い言葉が見つかりません)

細部にわたって、さまざまなパターンを挙げて書かれているので、

とても参考になります。

参考、というとまた語弊があるのですが、

つまり

愛する人を亡くすということはどんな場合でどんな状況であっても

悲嘆にくれて当然のことであるし、

悲嘆の仕方は人それぞれで、向き合い方も人それぞれである

という事実

を知るための参考になります。

 

なんだか回りくどい言い方だな我ながら。

ちょっと引用してみようかな。

 

『自分の喪失の大きさを測定することができるのは自分しかいない。その喪失のもつ意味や、将来に暗い影を投げかけている底知れぬ虚しさは、だれに伝えてもけっして理解してはもらえない。自分の喪失は自分だけが知っている。とつぜん終止符を打たれた亡き人とのつながりの深さを知りつくしているのは、この世界に自分しかいないのだ。』

 

わたしは自分が最愛の息子を失うという経験をしてみて、

どんなに悲しんでも苦しんでも、

それをわたしと同じ立場で分かち合ってくれる人が誰もいないことに気づき、

愕然とし、孤独を感じていました。

 

通常の状態だったら、そんなことは同じ人間ではないんだから

当たり前じゃないか、

と思って自分でなんとか折り合いをつけたことでしょう。

 

ただ、わたしはあまりにも強い悲しみと絶望とに自分を失っており、

助けを必要としていました。

そして、ありがたいことに、

わたしの周りの、わたしを愛してくれている人々は

わたしを助けようと各々行動してくれたのです。

 

けれどわたしはその行動の中に

「苦しんでいるナユリゼを見るのが辛い自分を救いたい」という保守的な気持ちも感じとり(客観的に見て、そりゃそうだろうと思います)、

そのことと「自分の喪失と取り組んでいけるのは自分だけだという事実」を

混ぜて考えてしまい、

常にどこかで、人に対する不信と孤独とを感じてしまっていたのでした。

 

この本を最初から最後まで

じっくり時間をかけて読みながら、

わたしは喪失体験者とその周囲の親しい人、

両者の気持ちをなんとなく「バランス的に」理解したのでした。

 

理解はしたけど、

実際問題としてはやはり難しいことがたくさんありますけどね。

特に悲嘆に暮れてショック状態になっていたり、

周囲にも同じ人を喪失したことに悲しむ人(家族など)がいたりすると

とても複雑な様相になると思います。

 

わたしは幸か不幸か、

あゆむのことを一人で想い、一人で悲嘆に暮れ、

しかも元々一人で色々やっていく前提でいた人間だったので、

(だからこそあゆむと親子二人で暮らしていけるのが

新しい世界のように見えて、本当にまぶしいほど心から嬉しかったのです)

心行くまで自分の喪失と向き合うことが出来ている。

 

たまたま、文を書くことで自分と向き合う作業については

抵抗もないし、

先人の知識や体験を得るために本を読み漁るのは

わたしの助けになるということも習慣からよく知っている。

それらを楽しむ自分も知っている。

 

おかげで、たぶんわたしの最短距離でここまで来れたかも?という気がしている。

ここまでってどこまでか説明しづらいけど、

本当の意味で

「自分の体験や感情は自分だけのもので、誰にも理解されないその人だけの個性。

そしてそれをどう生かし、失った人とどう共存し、その人とともに歩いていくかを

見つけていくのが人生のひとつだ。」

ということが理解できたような気がしているのです。

まあ、理解できた!と思ってもまた分からなくなった・・・ということの

繰り返しだろうなあとも思ってますが。

 

最後にもう一つ引用してみよう。

 

『悲嘆はけっして消えることのない喪失をくり返し内省する体験である。内面においても外面においても、悲嘆とともに生きることを愚直に学んでいくほかに道はないのだ。

(中略)

愛する人の死を悲しむ気持ちに終わりはない。』

 

愛する人を失うとやはりとても苦しいので、

こんな辛い状態からいつか脱することがあるのだろうか?(いや、あるまい)

 

と絶望する。

だけど、いつか「そんな状態」からは脱します。

脱しますが、悲しみは生涯消えないのです。

 

わたしはそのことに何となく気づき始めたときに、

最初は心底落胆しました。

今は心から安堵しています。

 

なぜなら、

あゆむのことをずっと思って、ときには泣いたりしても、

いつまでも悲しんでいても、全然おかしくないんだな、

頑張ってその気持ちを消そうとしなくたっていいんだな、

と思えたからです。

ふしぎなもので、

消そうとしなくても、

むりやり「元気になる」とか「立ち直る」なんて

意味の分からないことしなくても別にいいんだな、

と思えたことで、

わたしは生きていこうと思えるようになった気がするんですよ。

やっと、あゆむの喪失を

わたしのもの、と自信持って言えるようになった気がします。

 

 

みなさんの宝物がいつのまにか守られていますように。