歩いていく方法 (『悲しみがやさしくなるとき』を読む②)
こんばんは、ナユリゼです。
先日読んだ本『悲しみがやさしくなるとき 子どもを亡くしたあなたへ』
について、もう一度書こうと思います。
前回は、最愛の子どもを亡くしたことによる世界の変化について、
の記載を紹介したのですが、
今回は、
その後いかにして人生を歩むか
について。
わらにもすがる思いで、わたしも今探しているところです。
《乗り越えなくてはいけないと思うのよ。それに、きっと乗り越えられるとも思うの。でも、決してそうはならない。ほんとうに乗り越えるなんてことは永遠にできないのよ。》
《悲しみに押しつぶされそうになっていた私は何か「妙薬」がないかとさがしていました。知恵と経験を持っただれかが適切な指導をしてくれないかと望みを持っていたのです。》
乗り越えるってどういうことかすら正直理解できないのですが、何か方法があるはずだ、と日常と折り合いをつけながら、もがきます。
適切な指導をしてくれる誰かでも、書物でも、インターネットの記事でもなんでもいいから!と頼りたくてたまらなくなります。
なのに、答えはどこにもなくて、誰も知らない。
《あんなことがあり、それでも私は生きているのだから、不幸を嘆くだけでなく、想像力を前向きに働かせる責任のようなものがあるはずなのです。》
《乗り越えられるわけがありません。
それでも私たちは前に進みます。前とは違う、より強い人間として生きていくのです。あなたは人間にとって究極の試練を耐えたのですし、天使となった子どもたちが、あなたがつらく悲しいとき、きっと助けてくれるだろうからです。》
こんなふうに考えることで日々を過ごしていくしかないことに
絶望を感じることもあるし、
ふしぎなことに安心を感じることもあります。
だって、亡くなった子どもの存在をずっとずっと忘れずにいてもいいと許されているということでもあるので。
目に見えない存在としてではなく、生きたわが子に会いたいと願わない日は一日たりともないけれども、悲しみの性質は時間がたつと変化する、
悲しみは、その存在は意識しているものの、たえず恐れるものではなくなる、
と著者は書いておられます。
よく「時間が一番の薬」
というのは言われることですが、
それは別に悲しみが薄れるとか、すっかり元気になるとか、
そういうことではないのですよね。
悲しみは常にある。でもやさしくなる。
そのときに感じることのできることはどういったものなのだろうか。
ただ、そうなるまでには何年も何年も時間がかかるだろうということを
わたしはなんとなく感じています。
そして、その間に限りない苦しみや努力があることも。
ただ、一日中何もしないで目を閉じてうずくまっていれば、
それで楽になる、というわけでは残念ながらないのです。
今はまだ気が遠くなりそうな気持ちですが、
一日一日過ごそう。
結局自分で探し、自分で見つけるしかないのです。進む方法を。
守りながら、苦しみながら。
わたしたちの宝物がどうか永遠に守られますように。