祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

我が子へおてがみ。クリスマスのこと

大好きなあゆむへ

 

今月はおてがみを書くの、少し遅くなっちゃった。

お仕事とっても忙しくてね、

帰るとおうちでばたんきゅ、してたから

なかなか書けなかったんだ。

待たせちゃってごめんね、あゆむ。

あゆむも毎日水色のポンポン両手に持って

応援してくれてたの、

嬉しかったよ。

ありがとう!ありがとうあゆむー♡だいすきー(*´▽`*)

 

きっとあゆむはママからのおてがみ、

なんだかんだでちょっと楽しみにしてるでしょう?

勝手にそう思って、いつもママも

あゆむにおてがみ書くのを楽しみにしてるんだよ。

だから、やっと書けたー!

って嬉しいです。

 

あゆむ、

初めてのクリスマスはどうだった?

ママは飾り付け、楽しく頑張ってみたけど、

あゆむも楽しかったかな?

 

 ツリーもサンタもスノーマンのケーキも!

可愛かったね。

ケーキね、

来月はあゆむのお誕生日だし、

その時にしっかりりっぱなケーキを食べるから、

と思って今月は何か別のお菓子にしようかな、

と思ったんだけど、

ママのおともだちや知り合いのひとたちから

「誕生日とクリスマスが近いと

プレゼントもケーキもまとめられてしまって

なんか悲しい!」

とかいう話を聞いたことがあるなあ

と思い出した。

 

そうだよねえ、

あゆむもそんな感じじゃ悲しいよね、

と思って(ママとしてはそんなつもりではないけれど)

今月は今月でちゃんとクリスマスケーキにしたよ。

来月もちゃんとバースデーケーキを用意するから

安心してね、あゆむ(笑)

 

クリスマスに関してはね、

いろんな言い伝えや考え方があるの。

でもそれを抜きにして

ママはこどものころ、

クリスマスがとにかく楽しみだった。

プレゼントもチキンもケーキも

赤と緑と白と黄色のいろとりどりも

とにかくわくわくしたけれど、

いちばんはサンタクロース!

 

夜の間にせっせと働いて

子どもたちに気づかれないように

寝ている間に枕もとにプレゼントを置いていくの。

サンタさんをぜったいにこの目で見るんだ!

と思ってがんばって起きてようとしたけど

寝ちゃって

がっかりしたこともある。

欲しいっておてがみに書いたものが貰えなくて

ちょっと泣いちゃったこともある。

(でもママの勘違いで、ちゃんともらえてたんだけどね)

 

そういうわくわくをあゆむにも味わってもらいたいなあ

と思ったけど、

なかなか難しいものだね。

いいアイデアが出なかったよー(;´・ω・)

 

今はこれがママのせいいっぱい。

 

それでもあゆむがクリスマスをママと楽しんでくれたんだったら

ママはとっても嬉しいです。

 

 

またね!

 

 

愛をこめて

ママより

 

 

りんごじゅーちゅの要望。

こんばんは、ナユリゼです。

 

先日、わたしの勤めるお店(飲食店ではありません)に

ママと、幼い男の子の二人連れがやってきました。

ママの用事のために立ち寄ったようです。

 

待つためにソファに座ったママから離れて

男の子がトコトコと歩み寄り、

うちの女性スタッフのひとりに言いました。

 

 

「りんごじゅーちゅ、くだしゃい」

 

 

(*´ω`*)(*´ω`*)(*´▽`*) ←周りのスタッフたち

 

「ごめんねえ~りんごじゅーちゅはないの~(≧∇≦)メロメロ」

 

 

ママが慌てて駆け寄って

「す、すみません!汗 

〇〇(男の子の名前)、ここではじゅーちゅは貰えないんだよ!」

 

 

でも、なぜか根気よくまたトコトコと歩み寄ってくる〇〇くん。

わたしのところにも3回来てくれた。(可愛い)

「りんごじゅーちゅー」

「りんごじゅーちゅ」

「りんごじゅーちゅ・・・」

 

 

ママがしまいには

「そうだ、ほら、抱っこしようか?」

と言って、抱っこされ、収束。(拘束?)

抱っこしたまま用事を済ませたママは

彼と共に笑顔で

ありがとうございましたー

と爽やかに去っていきました。

 

 

 

仕事終わって、

帰宅して、

ふとあゆむにいつもあげているじゅーちゅを見たら

そういえば最近はずっと

みかんじゅーちゅばっかりだった。

 

 

はっ!!!Σ(゚Д゚)

 

もしかしてあゆむがわたしに

りんごじゅーちゅを飲みたいぜ、ママ!

みかんじゅーちゅ飽きたぜ

とあの子の口を通して訴えてるの!?

 

 

 

 

というわけで

りんごじゅーちゅを買ってきましたよ。

 

あゆむ、明日からはしばらくりんごじゅーちゅをあげるね。

いーっぱい飲めるよ!いーっぱいあるから!

 

・・・ん?

色んな味が飲みたいって?

わかった!今度から色んな味をじゅんぐりに飲めるようにするね。

 

でも、今回はりんごじゅーちゅ勢いで大量買いしたからしばらく許してね(笑)

 

 

 

 

あゆむの要望をキャッチするのは

なかなかたいへん。(笑)

でもキャッチできる精度が上がるように頑張るからね、あゆむ!

 

 

こんな、天使ママの日常だったりします。(^_-)-☆

 

 

 

 

 

 

みなさんの宝物が守られますように。

 

 

 

 

 

大切な、何か優しいもの 『まっくらな中での対話』を読んで

こんばんは、ナユリゼです。

 

こんな本を読みました。

 

『まっくらな中での対話』(茂木健一郎withダイアログ・インザ・ダーク/講談社文庫)

 

まっくらな中での対話 (講談社文庫)
 

 

 

タイトル初見で、心理学的な本なのかな?という印象。

そしてなぜか怖いような印象も持ちました(「ダーク」だから?苦笑)。

読んでみたら全然違いましたが。

 

 

『ダイアログ・インザ・ダーク』

とはドイツで生まれた

 ”ソーシャル・エンターテインメント”

だそうです。

文字通り、

暗闇での対話。

 

みなさんは

「まったくの暗闇」

に一定時間いた経験はあるでしょうか?

わたしはありません。

 

まったくの暗闇、とは

文字通り全く光がなく、

目が慣れてきても何も見えないほどの闇のこと。

それほどの闇には

少なくともわたしは物心ついてからは

遭遇していない気すらします。

すぐに脱出してしまって、

覚えてもいないだけなのでしょうか?

消防法の影響もあるのでしょうか?

 

そんな現代において

まっくらやみを作り出し、

1時間~1時間半の間

アテンドスタッフの導きと

自分たち本来の聴覚・嗅覚・触覚・味覚を使って冒険する!

という興味深いイベント、

それが

「ダイアログ・インザ・ダーク(DID)」。

 

本書は

それを日本にて行おうと努力し、実現し、

開催し続けてもいる

志村季世恵氏と

脳科学者でDIDに魅せられた

茂木健一郎氏の対談、

そしてアテンドスタッフとしての

当時(2011年)の活躍メンバー3人

(いずれも視覚障害者)

も交えた座談会を収録した「対談本」です。

 

本書を読んで感じるのは

「わたしは今までいかに五感を意識せずに生きてきたか」

ということ。

 

そして、そのうちのたったひとつでも意識しただけで

ものすごく世界が変わるであろうということ。

 

「ダイアログ・インザ・ダーク」

の体験者は

まったくの暗闇で過ごすだけなのに

とても癒され、色々なことに気づく、

と言います。

 

でもそれはそうだろう、

と読んでるだけで思えるくらいに

わたしは五感が鈍っているかなという気がしますね。

 

視覚 → 電子的な色々、活字的な色々を見すぎ。しかもコンタクトレンズ

聴覚 → 色々聞いてない

嗅覚 → あちこちから色んな匂いが漂ってくるので極力気にしない。

味覚 → まずくなければまあ良い

触覚 → 触り心地がひどくなければひとまず良い

 

大胆に言い切ってしまえば、

現代日本の、特に都会の人間はほぼ例外なくこんな感じだろうと思います。

(※意識して好ましいように改善してる方は除く)

 

だからこそなのか

ダイアログインザダーク

を体験した方は

とても癒されるそうです。

 

なんかそれだけでも体験してみたくなる。

 

 

この本は対談本なのですが、

なぜか読めば読むほど

心の底にある、とても大切な何かに

あと少しで気づけそうな気がしてくる

もう少しでその大切な何かに触れる気がする、

そんな切ない、もどかしい、幸福のようなものを感じます。

 

これはいったいなんだろう。

とてもふしぎです。

視覚を遮断された彼らならではの文化、

それは気づけないほどの日常のことなのだけれど、

この本の中で知ることで、

あっ、これは何かとても大切なことだ、

でもそれを言語化できない!

でも絶対に大切なのに!

そのもどかしさも愛しい感じ。

 

2か所ほど抜粋してみます。

 

『たとえば、我が家の猫の写真を撮ってAさんに見せたら、「縞模様がきれいな猫だね」と言ってくれたとします。次に同じ写真をBさんに見せたら、「しっぽがまっすぐで長いね」という感想をくれたとする。

人の感想って必ず違うものだから、同じものを見せても、AさんとBさんでは絶対に別の感想を持っているはずなんです。それを僕は知ることができる。

こういうのって、もし僕の目が見えたとしたら、自分の目で見て納得して、それで終わりだと思うんですよ。でも、いろんな人に見せていくことによって、自分の飼っている猫についてもいろんな印象を知ることができる。

自分の撮った写真を10人に見せたら、僕は10人分の目を持っていることになるんです。それが僕にとっての、写真の面白さかな。』

 

 

『見えないことが僕にとっては普通の状態なんです。(中略)

「もともと持っていたものを失う」のは大変なことなんだろうと思います。

たとえば、もし今、僕の手が動かなくなったら、「ああ、ドラムもう叩けないや」ってものすごい嘆き悲しむんだろうと思うんですよ。だけど、もとから手がない人にとっては、たぶん大したことじゃない。

あったものがなくなると、すごく悲しい。

だけど、もとからなければ、ないはないなりに生きていける。

最近、そんなようなことを考えるようになりました。』

 

 

この本を読んでいると

いろんな人がいろんな個性を持っている、

という当たり前のことを、

ごく自然に受け入れることができる気がします。

受け入れるし、受け入れてもらえる。

暗闇には何か、そういう力があるのかもしれません。

 

 

ダイアログ・インザ・ダーク

体験してみたい・・・

 

 

 

 

みなさんの宝物が守られますように。

 

 

 

 

 

残されるとき。

こんばんは、ナユリゼです。

 

 

本日午後、

わたしのことを生まれた時から今までずっと

慈しんで、成長を楽しみにして、幸せを願って、

心から可愛がってくれた大好きな

祖母が亡くなりました。

 

先月、

彼女の息子であるわたしの伯父(父の兄)が

突然亡くなったのですが、

彼女はその時すでに入院して闘病、

というか末期がんだったので

痛みや病状に耐え、

次々に来るわたしたちや親戚・友人たちの見舞いにも

立派に応対していました。

 

96歳なので

一般的には「大往生」と言えるのかもしれません。

でも、

心から悲しいです。

 

彼女は孫のわたしが言うのもなんですが

非常に立派なひとでした。

 

時代的に女性が色々と働くのは難しかったし不自由もあったと思います。

でもそんな中でも

保育士や民生委員の役目をこなし、

農家の嫁としても既存の畑ばかりか

お花の生産・出荷など自分の周囲の希望や自身のやりたいことを形にし、

気丈にみんなをひっぱり慕われるリーダータイプの祖母でした。

 

子どもを二人産み、

ひとりは先月亡くなった伯父で彼は独身、

もう一人はわたしの父です。

 

長男である伯父は先月急死、

祖母は既に末期がんということは伏せられた上で入院中。

伯父とはお互いの体調(を心配して)のことで喧嘩ばかりでしたが

意識は常にはっきりしているのに

食事もとれないくらい弱っている祖母に

「今度〇〇(伯父)が病院に来るときにラムネを買ってくるようにお願いしておいて」

などという祖母に(←吐き気が酷いためおそらく炭酸・甘味などが口にしやすかったと思われる)

伯父が亡くなったことをとても言えず。

 

伯父の葬儀を済ませました。

 

しかし、頭のしっかりしている祖母に隠し通せるわけもなく、

葬儀の翌日に父は祖母に全てを話したそうです。

きっとショックを与え、半狂乱になってしまうのではないか、と

不安を抱えつつ。

 

けれど、祖母は

そういうこともあるだろう、と予測もしつつ

なおかつ

兄の葬儀関連(その他もろもろ)をこなし、さらにこなしつづけることとなった

次男(父)をねぎらい、

さまざまな書類を有効にするための委任状にサインをするため

しばらくは毎日のように父が病院に訪ねていくと

末期がんの痛みが辛いのにも関わらず、

起き上がってペンを構えて一生懸命サインをしていたそうです。

 

 

 

彼女の孫はわたしとわたしのきょうだいだけです。

でも96歳と長生きしたのに

誰もひまごを見せてあげられなかった。

 

あゆむをおばあちゃんに会わせて、

できれば抱っこしてもらうことが

わたしのひそかな夢でした。

あゆむを妊娠したときは、あ、この夢が叶う、

と思った。

 

・・・けれど叶いませんでした。

 

祖母は

わたしが生まれた時からそれを喜び、

常にわたしとわたしのきょうだいを慈しんで

成長やその存在を嬉しがってくれる人でした。

 

わたしは思うのですが、

「生まれた時からそれを喜び常に慈しんで成長やその存在を嬉しがる」

ということはやはり並大抵のことではないと思います。

 

それこそ

親や

祖父母や

きょうだいや

そういう近しい「家族」でないとなかなか難しい。

(そうでない場合も勿論あるでしょうけども)

 

ああ、そういう存在がまた一人いなくなってしまったのだな、

と感じます。

それもとても大きな存在が。

 

残されて、あとには誰もいない、

という恐ろしさ。

 

もしかするとそれを回避するために

人は子を残すのではないか

と最近とみに思います。

 

結局自分のことしか考えてないのかなと思って

折れそうなほど愕然とするのに

子どもが欲しいという気持ちは止まりません。

どうしたらいいのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はあゆむとお月さまと共に過ごします。

 

 

 

 

 

 

我が子へおてがみ。お月さまのこと

大好きなあゆむへ

 

あゆむ~

お月さま~

元気ですか~?

 

ずーっとあゆむと一緒に毎日のようにお月さまを眺めていたのに

このところお月さまはお顔を見せてくれないね。

最後にお月さま見たの、いつかなあ?

最近ずっと雨や曇りばかりだものね。

 

もう一週間くらいお月さまに会えてないよねえ?

さびしいよー

 

 

最後にお月さまを見た時は

ちょうどまんまるの姿から

少しずつスリムになり始めた頃だったよね。

はて、

これだけ長く見ていないとなると

次に見られたときは三日月くらいになっているだろうか?

それともいったん新月になって、

まあるくなり始める時期になってるだろうか?

 

新月ってわかる?

お月さまがうーんとほそーくほそーくなって、

ほとんど見えなくなったときのことだよ。

 

そういうのも毎日見ていれば分かるんだけどねえ。

あゆむは毎日お空でお月さまともおしゃべりしてるのかな?

だったら、それはそれで楽しいねえ!

 

ママは月の満ち欠けカレンダーを調べてみました!

そしたらね、

今日はまだだけど、

明日か明後日くらいが新月らしい。

そしてその後からまたすこーしずつまんまるになっていくんだよ。

 

じゃあ次に会うお月さまは、

満月に向かっていくお月さまなのかもね。

 

お月さまも地上に姿を見せるのお休みして、

雲のふかふかベッドでお休みしたいときもあるよね。

長期リフレッシュ休暇だね、きっと。

そう思って、さびしいのはがまん。

 

あゆむ!

お空の長期リフレッシュ休暇が終わったら、

ママと一緒にお月さまを見上げてにっこりしようね。

ママはその時間をいつもとっても楽しみにしてるの。

あゆむもでしょう?

お月さまもお星さまもたくさん一緒に見ようね。

 

 

またね!

 

愛をこめて

ママより

 

 

 

俺の屍を越えてゆけ!

こんばんは、ナユリゼです。

 

 

俺の屍を越えてゆけ

というタイトルの、

わたしの大好きなゲーム作品がありまして。

 

www.sony.jp

CMがまた大好きで。

1999年に1が発売、2014年にPSPに移植、2014年に2が発売されている。

そのたびCMが作られているのですが、

なんと同じキャストで、

少しずつ変化する彼らも見られるのです。

年齢や外見だけでなく、内面も。

2014年版を見ると、なんだかどうしようもなく泣きたいような気持になります。

お父さんのキャストは岸部一徳さんです。↓

 

www.youtube.com

 

 

 

PSvitaPSP版をダウンロードして

久しぶりにプレイしていますが、

あー、やっぱり好き!!!

 

このゲームはちょっと変わったRPGです。

舞台は京の都(のようなところ)。

人々を脅かし、町を荒廃させる鬼たちの頭目を倒すのが目的だが、

「短命の呪い」と「種絶の呪い」

という二つの呪いをかけられてしまった一族が、

その頭目を倒すことにより呪いも解けるのではないか

という悲願も込めて世代を越え、闘い続けるというストーリー。

 

「短命の呪い」

というのは半端でなく”短命”で、

この一族は誰しも長くて2年くらいで寿命を終えます。

闘いで負ければそれは本当に死を意味します。

例えばドラクエでいう、教会の神父様やザオリク世界樹の葉

といった便利なものは存在しません。死ねば生き返ることはありません。

 

「種絶の呪い」

というのは人との間に子をなすことができない、

というものです。

ただし、天界の神々が一族に味方してくれて、

その神々と交わることで血を残していくことができる、という設定。

 

短い生涯の中で戦い、子をなし、子に奥義を授け、そして死んでいく。

それを短いスパンで延々と見ることになります。

けれども何人も何人も生み出し、育て、見送り、見送られ、

家系図がどんどん延びていくのを見ながらプレイしていると、

一人の人生だけでは到底わからないような何かを感じ始めてくる。

ああ、ひとは

こうやって血をつないできたのだな、と思うのです。

 

 

 

わたしは、

「子どもが欲しい」

と思うことは概ね親のエゴだと思っている。

例えば親の

「将来寂しいだろうから」とか

「家族とは子どもがいてこそだから」とか

「跡継ぎがほしいから」とか

「子どもが好きだから」とか

少子化だから」とか

そういう思いは子ども自身には何の関係もないのです。

全部親の思いでしかない。

 

ちなみに

わたしはエゴというのは人がその人らしく生きるために必要なものなので、

人としてダメというようなものでない限りは

別に悪いものではないと思ってる。

だが

「それはエゴである」

ということは認識しておくべきだ、とは考えています。

 

 

わたしは子どもに何を期待しているのだろう、

と考えると

究極的には

俺の屍を越えてゆけ!」

という気持ちを伝えて、その子どもより先に死にたいから、

ということなのだろうなあ、という気がします。

成長を見守ってきて、もうすっかり独り立ちしたな、

と安心して、それから

好きに生きろ!と言って死にたいから、という。

 

これって究極のエゴだ。

それゆえ

叶えられない状況も色んなパターンで存在する。

 

だけど、

そういうものなんじゃないか、という気がしている。

人はそうやって血をつないで、遺伝子を交えて、

また、そうできないこともあって、

今に至るのだ。

 

どんなに人のエゴが強かろうと、

そんなもの大した力はない。

だったら、

望んで、叶ったなら、

エゴだろうがなんだろうが、あとは一生懸命楽しむだけだ。

 

 

 

みなさんの宝物が守られますように。

 

 

 

 

 

女性作家ばかり。

こんばんは、ナユリゼです。

 

田舎で暮らす、大好きな祖母(97歳)が病気で入院しました。

年内は持たないだろう、と言われているところに

彼女の息子であるところの、わたしの伯父が

とつぜん亡くなりました。

伯父はわたしが小さいころから

わたしや、わたしのきょうだいを可愛がってくれた。

 

そんな感じでバタバタしてますし、

思うところも感じるところも色々とあるのですが、

あえて今日は本の話でも。

 

 

わたしは別に意図したわけではないのですが、

なぜか女性が著者の本を読む機会が

男性が著書の本を読む機会よりも若干多めだな、と思ってます。

たぶん好みの問題と、

わたし自身が女性だから、というのがあるのでしょう。

 

ここ最近女性が書いた本ばかり読んでましたので

いつもの読書日記と趣向を変えて、

3冊分さらっと所感のみ書いてみたいと思います。

ある意味覚書?

 

 

『薔薇を拒む』(近藤史恵/講談社文庫) 

薔薇を拒む (講談社文庫)

薔薇を拒む (講談社文庫)

 

 ミステリ的要素もあり、

乙女ゲームや少女漫画的要素もあり、

全体的に非常にあやうい感じが漂う小説です。

ラストは、抜き差しならないと表現してもいいほどのあやうさを感じます。

幸せを形作っているからこそなお。

読んでいて、

どれもこれもどこかで見たことあるぞ、

というような既視感を感じました。

たぶん、いろんな本のいろんな要素(設定とかキャラクターとか)が

この本にありったけ詰め込まれています。

それがちゃーんとこの本の中にオリジナルのものとして動き

きちんと着地もして、

いたたまれないほどのあやうさまで感じさせるというのはすごいと思う。

 

どっかで読んだことあるな、

とは思ってしまうけど、

それでもついつい先へ先へと読ませる一冊です。

 

 

 

『午後の音楽』(小池真理子/集英社文庫

午後の音楽 (集英社文庫)

午後の音楽 (集英社文庫)

 

 こういう「メールだけ」「手紙だけ」で話が進む

という縛りのある小説が大好物です。

書簡体小説

というジャンルに入るらしいですが、

メールでもたぶんそのくくりで良いでしょうね。

 

人の心を土足で踏みにじってもなんとも思わない、

というか土足で踏みにじる行為だった、ということに思いも寄らない

というタイプの人間は確かに存在します。普通に存在します。

でも、その人にそのことを説明しても、

たぶん分からないのです。

それはその人が劣っている、という意味ではなく、

そういう性質だから。

 

ただ、近しい人がそういうタイプだと

そういうタイプではない人はたぶんとても苦労、というか

辛いこともあるだろうな、と思いました。

 

本書ならではのところもあるかとは思いますが、

女性はやっぱりなんというかしなやかに強いですよね。

男性はなんだかあやういというか脆いというか

心配な感じがします。そこはかとなく。

なぜなのだろう?

 

 

『手のひらの楽園』(宮木あや子/新潮社)

手のひらの楽園

手のひらの楽園

 

 宮木さんの諸作品は設定がかなり特殊なものが多いのですが、

大好きでよく読んでます。

 

色んな家庭があるし、色んな事情がある、

ということにこの年齢(20歳前)でリアルに接触できる

ということは幸せなのか不運なのか分からないけど、

でもわたしはその点に関してだけは羨ましいな、と思った。

主人公の友麻(ゆうま)ちゃんはとっても魅力的で強く明るく軽く、

周りにいい人物も沢山いる。

でも

いい人が周りにいる、

ってつまり周りにいる人を「いい人」にする素養のようなものが

当人にあるってことなのかもな、

とふと思った。

 

 

 

わたしの伯父も

結婚は生涯しなかったけれども

親戚のおばちゃんたちには非常に可愛がられて

亡くなってからもたくさん明るく話しかけてもらってた。

姪のわたしも

彼のなんかテキトーで、息がしやすいような性格が

ほほえましくて好きだった。

 

似たような人は周りに集まるものだ。

でもそこからすら、当人次第で変わるような気がするなあ。

ん?あゆむもそう思う?

観察を続けよう!

 

 

 

みなさんの宝物が守られますように。