祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

いなくなった男たちの話。

こんにちは、ナユリゼです。

 

だいぶ年季が入ったパソコンになってきたため(おそらく8年くらい使用)

買い替えました。

で、新しいパソコンでブログを書こうと思って「なゆりぜ」って打って変換したら

菜百合是

って出ました。なんかカッコいい。

そのうち普通にカタカナ変換しかされないようになっていくのでしょうけど、

しばし楽しみましょう。

 

 

毎日あゆむのことばかり考えているのであまり意識に上らなかったのですが、

友人・家族とのおしゃべりにおいて

あゆむのことを話す以上に、

あゆむパパのことを話すことが非常に難しいことに最近気づきました。

なぜなら彼は

もうすぐ臨月、というわたし(とあゆむ)をほっぽって

別の道に行ってしまったからです。

大人同士のお付き合いですから、いろいろあるのは仕方ないのですが、

いかんせん時期が悪すぎでしたよね。

それで、彼はわたしの友人や家族にとっては

「腹に据えかねる人物」

になってしまったのです。

 

わたしとしては、

彼とお別れした直後に

あゆむが18トリソミーと判明したり

羊水多すぎていろいろ危険だったので病院で抜いてもらったり

予定より早く出産になって、あゆむともお別れになったり

短期間で怒涛の展開すぎて

それどころじゃなくなって。

 

彼のことももはや死んだ人であるかのように考えてる自分がいたりします。

いや、でも彼が生きてるのは知ってます。

生きてる限り、どこかでまた会う可能性だってあるのも分かってるんです。

なのに、ずいぶん昔に死んでしまって、

今はすべてがいい思い出、

みたいな心情になってるんですよね。

懐かしいなあ、一緒に過ごしていろいろあったけど楽しかったなあ、

っていつのまにか微笑むような。

 

だが、わたしの友人・家族にとってはそうではない。

 

大事なことなのでもう一度言いますが(笑)

彼は生きてますし、お別れまで一緒に暮らしてもいたのです。

なので思い出は昔のように思えても鮮明で、ちょくちょく思い出す。

懐かしくてなんとなく嬉しくなってついつい、

「だいぶ前に彼と○○に行って楽しかったなー」

とか

「彼はこの食べ物が好きで、しょっちゅう食べてたなー」

とか周りのみんなに話しちゃうんですよね。ちょくちょく。

 

そうするとみんな嫌な顔をします(笑)

 

お別れすることになった理由もいろいろ考えると

彼の世界観や性質からすると彼にとっては仕方なかったのも分かるし、

やさしさなども見え隠れしているのが感じ取れるので、

子を見守る母のような気持ちになってついつい、

「お別れするのは悲しかったし色々理解できないこともあったけど、

彼は彼なりにいろいろ思うところがあったんだろうな、って思うんだー」

とか周りのみんなに話しちゃうんですよね。うっかり。

 

そうするとみんな反論し話が強制終了になります(笑)

 

まあ、逆の立場だったらわたしも友人たちと同じ態度になると思うので、

分かるんですけどね。

でもさびしいなあ、と思って。

わたしはわたしなりに彼のことを愛してるし、

かと言って未練は全くないし、

彼との間にあゆむが生まれて本当にうれしかったなあ、

と思っているので、

そのことを普通のおしゃべりで話題にできないのは残念です。

時がたてば、それもまた変わるのかな?

 

あゆむのこともわたしは普通にお話ししたいんだけど、

周囲からの抵抗感をなんとなく感じます。

聞きたくないっていう抵抗ではなく、

どういうふうに受け止めたらいいのかわからないことによる抵抗です。

でもわたしにとってはあゆむのことも日常の、普通のこと。

普通に話していこうかな、と思ってます。

 

死んでしまった子のことを話すのは

別におかしいことでも不謹慎なことでも哀れなことでもないし、

死んでしまったとしても、あゆむは永遠にわたしの可愛い子です。

そのことが友人や家族にだけでも、普通に受け止めてもらえるようになればいいな。

あゆむパパのことはまあさておき。

 

 

みなさんの宝物が守られますように。