祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

それぞれの世界を愛しむ 『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』を読んで②

こんにちは、ナユリゼです。

 

 

『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(H.S.クシュナー/斎藤武:訳/岩波現代文庫

を読みまして、

前回いくらか内容を書きました。

本書のベースとなるヨブの物語はこの記事内に↓

 

 

そして前回記事はこれ↓

 

nayurizeblog.hatenablog.com

 

読了後に独自にざっくりと本書内のテーマを3つ抽出しまして、

今回はそれについて書きます。

 

【メインテーマ】

①なぜ私だけが苦しむのか

②「神」とはいったいなんなのか

③何が苦しむ人を助けるか

 

でははじまりはじまり~

 

 

テーマ①<なぜ私だけが苦しむのか>

 

著者は深い信仰を持つ「ラビ」ですので(牧師さんのような存在と考えれば分かりやすいのかな・・・)

日本人で宗教を持たないわたしよりよほどこの問題に直面したことでしょう。

 

『神は、人が傷つくことがないように、また自分で自分を傷つけたりすることが

ないように守り、人がその態度や行いにふさわしい人生を送るように見守ってくれる、

と思っていたのです』

 

と書いておられます。

神に対する怒りから疑いを抱き、

または、自分が悪かったから神に罰せられているのだと自分を責め、

力も希望もどこにも求められずに苦しむ、

そんな時期がきっとこの方にもあったのではないか、

と推測します。

 

大切な人と死別した方の体験談を読んでいると、

たとえ対象が神ではなかったとしても、

こういう怒り、疑い、自責、絶望の感情が見受けられます。

わたしもそうでした。今もそれは消えていません。

 

「なぜ私だけが?」と思うことも。

 

この「なぜ私だけがこんなにも苦しむのか」という問いは

苦しいときにはやむを得ないものだと思います。

 

でも「なぜ?」に対する答えを探せば探すほど、

人は余計に苦しむことになってしまうのです。

神を憎み、周囲の人々を憎み、自分自身を憎み、嘆く。

 

その一方で、

人は理由もなく苦しむことに耐えられない一面があります。

「人間には計り知れないような、神にしかわからない理由があって、こんなことが起こっているのだ」

と考え、無理にでも自分を納得させようと試みるのです。

理由は何もないけど、たまたま偶然こういうことになった、

だなんて、到底受け入れるはずがありません。耐え難い。

 

人間の気持ちは複雑なものです。

 

けれども、上記のどこにも本当の意味での慰めも安らぎも見いだせはしない。

 

そこで著者は

 

「どうして神は私をこんな目に合わせるのだろうか?という問いは見当違いのものなのだろうか?」

 

という思いにたどり着きます。

そして、人間の苦悩について最も徹底的に深く考察していると思われる

ヨブ記

についての考察が始まります。

 

 

テーマ②<「神」とはいったいなんなのか >

 

さてここでヨブの物語を読んだうえで

著者は、興味深い3つの命題を挙げます。

 

A.神は全能であり、世界で生じる全ての出来事は神の意志による。

B.神は正義であり公平であり、善である。

C.ヨブは正しい人である。

 

ヨブに何の問題も起こっていなければ、

ヨブはこの3つともをすんなりと信じることが可能でした。

けれども、

ヨブの物語のように、とんでもない不幸に見舞われた後にはそうはいきません。

A、B、Cのいずれか一つを否定しなければ

残り二つを正しいと主張することができません。

 

つまり

1.ヨブは正しくない人(Cを否定)→ 神は全能で正義である(AとBが正しい)

2.神は正義ではない(Bを否定)

 → ヨブは正しいが神は全能なので好きなようにできる(AとCが正しい)

3.神は全能ではない(Aを否定)

 → ヨブは正しく神は正義だがどうすることもできない(BとCが正しい)

 

 こういう観点で考えると非常に面白い。

 

ヨブの友人たちはヨブを懸命に慰めようとしますが、

しかしCを否定します。(上記1.の考え)

なぜかというと、

そうしないと彼らの信じてきた「神」と世界が根底からひっくり返るからです。

それは価値観を根こそぎ変えるに匹敵する、恐ろしいことです。

そして、自分には不幸が降りかからなかったことに安堵し、

さらにその理由を見つけることで自分は安全だと思いこみたい心理もある。

おそらく本人たちはそれに気づいていないでしょう。

けれど、無理もないことではある。

 

ヨブは自分を悪人にしてまで今までの価値観を守ろうなどとは到底思えない状況になっています。苦しくてたまらない。

 なのに友人たちからも非難を受けるという二重の苦しみを味わう羽目になります。

 

ヨブは恐れずにBを拒絶します。

つまり、ヨブは善人だけど、神は公平だとか正義だとかいう思考の枠にはおさまらないほどの絶大な力を持っているのだ、という上記2.の説です。

Cを肯定し、なおかつ神の存在を信じてきたヨブとしてはこれ以外に何を主張できるというのでしょう。

 

では残りの3.の説に関してはどうでしょうか?

ヨブは善人である。神は正義であり公平であり善である。

だが、神は全能ではない。

これはたぶん

全知全能の神を信じている人には耐え難い文章なのではないか、と推測します。

 

けれども著者は、誰よりも神を信じるはずの著者は

この説を取りました。

しかもいまなお著者は神を強く信じています。

 

その勇気と、

そして、我が子のことがいかに大きな衝撃をもって

彼の人生を容赦なくひっくり返したのか、

ということを思い呆然とします。

 

でも彼はその考え方の利点として

 

『けっして実現することのない、夢のような期待を神に抱き続けるのではなく、

神が実際に助けてくれることがらを求めて、神に目を向けられるようになります』

 

『神が自分を裁いたり責めたりしているという不安に陥ることなく、自尊心と善を信じ続けることができます』

 

『憤りがこみあげてきても、神に逆らっているという後ろめたさを感じることなく、それは私たちを通して表された不公平に対する神の怒りだと思うことができるのです』

 

と語ります。

 

つまり、

神さまはこっちの願いをまるで自動販売機みたいに代金と引き換えに与える

という便利で安易な存在ではなくて、

一緒に悲しんだり怒ったりすべて認めてそばにいて、応援してくれる存在

ということでしょうか。

 

それってまるで親友みたい。

本当の信仰っていうのはもしかすると

 そういうものなのかもしれないなあ、

と生まれて初めて思いました。

 

これって

今のわたしのあゆむに対する感覚と結構似ている気がします。

 

 

テーマ③<何が苦しむ人を助けるか>

 

本書の地下水脈に一貫して流れるこのテーマ。

ただ、あからさまには語られない、読者が感じ取ることのように思います。

(もちろん著者自身の思いはところどころに語られてはいます)

 

ヒントはテーマ②のところで書いた

一緒に悲しんだり怒ったりすべて認めてそばにいて、応援してくれる存在

というところにあるんじゃないかな、

と思ってます。

 

というか、苦しんでいる人を他者が助ける方法はそれ以外にはありません。

 

でも苦しむ自分を自分で助けたいときはどうすればいいでしょうか?

 

人間には時に、どれほど努力しても解決したり修正したり出来ない、

太刀打ち出来ない状況というものが訪れます。

なんの余裕もなく、ただ打ちのめされ、なすすべもなくただ生かされている、

と感じるようなことが起こり得るのです。

 

そして、他者の助けもありがたくは思うものの、

テーマ②で書いたヨブの友人たちのような心理を

敏感に読み取ってしまうこともあったりして、孤立する。

そんな時期もあると思います。

 

そんな時はやっぱり自分で自分を助ける方法を見つけるしかないのです。

 

わたしにとってはそれは他ならぬあゆむでした。

あゆむがいつもそばにいてくれている。

あゆむはもう戻ってこられないし、姿も見られないけど、でも、いる。

わたしが泣いても、怒っても、絶望しても、

それでもあゆむはいるし、ただママを好きでいてくれてる。

 

一途にそう信じて、毎日いろんなことをお骨の前で報告したり、

一緒に泣いたり(たぶん)愚痴を聞いてもらったり(たぶん)

あゆむが今歩いているであろう道を応援したり。

はたからみるとばかみたいに思えるかもしれませんが、

わたしは必死に、徐々に、確実に

「ママとあゆむの世界」

を確立するに至りました。

わたしはわたし、あゆむはあゆむの世界を歩いていく、という考えと両立しつつ。

 

あゆむはもちろん目には見えないし、触れることもできないし、

「本当にいるのだ」という証拠は何一つありません。

もしかすると「本当にいない」のかもしれません。

だけど、それが一体なんだというのでしょう。

ここに、「神を信じる」ということの本質もある気がします。

ま、わたしはあゆむですけど( ̄▽ ̄)

 

著者はこう書いています。

 

『私たちが問うべきなのは、「どうしてこの私にこんなことが起こるのだ?私がいったい、どんなことをしたというのか?」という質問ではないのです。

それは実際のところ、答えることのできない問いだし、無意味な問いなのです。

より良い問いは「すでに、こうなってしまった今、私はどうすればいいのだろうか?」というものでしょう』

 

「より良い問い」にたどり着くのは

本当に辛いことが起きたときには容易ではないと思います。

それでもやっとの思いでそこまでたどり着く人間の、底知れない力。

 

人は本当に弱くて、すぐ疲れるし気持ちが萎え、途方にくれ、絶望します。

 

『自分の力や勇気の限界に達した時、思いがけないことが私たちの上に起こるのです。

その時、外からの力によって強められる自分を見出します』

 

人はつくづく一人きりでは生きられない存在です。

神でも、故人でも、

そばにいると思えばそれはもう一人ではないと思うし、

大きな心のよりどころになるでしょう。

 

本書の内容に全く関係ない、

という人はこの世におそらくいないと思います。

非常に読みやすい本ですし、

機会があったらぜひぜひお読みくださいまし。

 

長々と続きましたがこのへんで。

 

みなさんの宝物が守られますように。