祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

いつか大樹になるまでに 『突然、息子が逝ってしまった 四十九日』(蔭山昌弘/幻冬舎文庫)

こんにちは、ナユリゼです。

 

行きつけの図書館の文庫本コーナーにこの本があることには

ずいぶん前から気づいていたんですが、

「今がまさにこれを読むべきときだ!」

と思って借りてきた。

実際読んでみて、精神的にも状況的にも、

わたしにとって今ほどこれを読むのに適したときはなかったです。

長年の読書経験により、そういう勘がかなり研ぎ澄まされているわたしであった。

 


 

 

本書はすべて仮名ではあるものの、実際に起きたことを

実の父が日記の形で克明に赤裸々に書いているもののようである。

作中の語り手の二男は19歳という若さで、

趣味のパラグライダー中の事故により命を失った。

その時から四十九日の法要が終わるまでの毎日の出来事や心情が

苦しみながらも生真面目に前向きに書いてあります。

 

読んでいて、わたしとしてはとにかく

羨ましいな

と思いました。

何をって、家族と仲間たちと故人の死をともに心から悲しめること、

そして支え合って、日々の気持ちを話し合って、

辛くても歩いていけることを。

故人との思い出がたくさんあることも。

 

わたしのあゆむは

この世界とのそういったつながりを

ほぼ全く作れないうちに亡くなってしまったので、

思い出も少なく、彼が何を好むのかも分からず、笑顔も見られず、

そして周りの人も彼がいなくなったこと自体を悲しむことはなく

わたしには彼の不在の辛さに対して共通に悲しむことが出来る人はいません。

そういう意味で

羨ましいな、と。

 

ただ、これはねたみとかひがみという意味ではなくてもっと単純な感情で、

本当に状況は人それぞれで、比べるものではないということが

きちんと分かっているらしい自分にちょっとほっとしました。

 

本書にも書いてあるんですが、

実は大切な人と死別すると、朝起きるのが非常に辛くなります。

わたしの友人たちは心配して必ず

「眠れてる?食べれてる?」

と聞いてくれていたものですが、

少なくともわたしにとっては眠ることはある意味救いでした。

寝ている間は「あの子がいない」ということを考えなくても良いからです。

起きるときは「あの子はいないんだ・・・」と

改めて実感し直さなければいけないのでとても辛いのです。

著者も

『ああ、朝だ。朝が来てしまった。今日が始まる。次郎(※亡くなった二男さん)のいないつらい一日が始まる』

『苦しい。朝、起きることが。一日が始まることが、こんなにも苦しいのかと思う。得体の知れぬ空虚感に囚われたまま、布団の中から顔を出す』

などと書いておられます。

分かるなあ・・・

でも、意外に経験者以外にはこのことは思いもよらないようなんですよね。

 

また、四十九日の直前くらいの記載にこんなものがあった。

 

『初めの頃は喪失の悲しみが主なものだったが、時が経つにつれ、付随する悲しみや派生する苦しみが生じてきた。これらに一通り出会い、慣れ、統御への糸口を見出すことによって、やっと、心は鎮まっていくのだろう。』

 

人は生きている限り色々な思いを抱くし、周りと関わったり自分も何かしら動いたりするので、延々と同じ一つの感情だけを持っていることはできないのだな、

ということはわたしも今感じている思いです。

喪失の悲しみは、それでもずっとあります。

ただ、それはわたしの中に根付いていつしか《育つ》のです。

芽も出ますし、枝葉が伸びて、他のものと絡みあったり影響しあうこともあります。

けれど、それが周りとうまくなじんで、いつか大樹となるまでには

当然時間がかかるのです。

こういうことも、経験してみなければ思いもよりませんでした。

誰かを失って悲しみ続けているひとは極端に言えば

ずーっと同じように悲しんでいるんだと思ってました。

そこから抜け出せなくて苦しんでいるんだと思っていました。

(もちろん、そういう時期もありますが)

でも、そうではないんですね。

せっかく出た芽が育たないこともあるでしょう。

伸びた枝葉が折られることもあるでしょう。

場合によっては根に栄養が行かなくて朽ち果てかけたり、

もしくは水をやりすぎて腐りかけたりすることだってあるでしょう。

育ちすぎて周りに悪影響を与えることも。

成熟した大樹となって、周りをしっとり見守る優しい存在になるまでには

ほどよい努力も時間も必要なのです。

 

そんなことを感じながら読み終えました。

 

著者が学校の先生で、なおかつ高潔な人物なので、

息子の死に苦しむ日々も非常にまっすぐで心を打たれます。

良いものを読んだな、と思いました。

 

旧約聖書の「ヨブ記」の中で

あまりにも神への信仰が厚い善人ヨブを試すため、

神がヨブにさまざまな不幸を見舞わせるそうです。

絶望から一度は神に怒りを持つヨブは、

やがて自分を諫め、神を敬う。

その姿を見た神はヨブに祝福を与える、というエピソード。

 

なぜ、神はヨブを試したのだろう。

そしてなぜヨブは神への信仰を失わなかったのだろう。

 

そこが知りたくて、著者はCGユングの『ヨブへの答え』を読んだ、

という記載があります。(著者はキリスト教徒ではありません)

なぜ試したのか?

それが知りたくなる気持ちはわたしも分かる気がします。

なぜ、良い行いを積んできたはずの他ならぬその人が、

試されなければならなかったのか?

 

答えを見つけるのは容易ではありません。

 

 

みなさんの宝物が守られていきますように。