祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

無意識の優越感。

こんばんは、ナユリゼです。

 

先日、定期的に購読しているブログにて

ある記事を見つけて読んだところ、

色々と感じるところがあったので、紹介してみます。

誰しもが人と付き合う上で身に覚えがあるのではないかと思われる重要なことが

書いてあります。

 


 あゆむを失った当初には色々気遣ってくれた友人や家族に

純粋に感謝していたわたしなのですが、

最近は、その近しい人々とほぼ交流が断たれている、

というか通常運転に戻っているために、

たまにやりとりすると全くかみ合わないことに気づきました。

 

よって出来る限り交流を持たないようにと

注意深く避けてさびしくても一人でいる、という道を選んでおります。

でも、この「さびしい」は結局【あゆむがいないから】というのが根底にあり、

代わりは誰もいないので、間違ってない選択だと思っております。

(※つまり、あゆむの不在を埋めるために他人に逃げ込むのを避けている)

 

が、これを説明するのが難しくて、

かといって友人たちや家族に対してありがたいという気持ちはあるので

非常に難儀します。

 

また、みんなが無意識下とはいえ、

わたしのことを「かわいそうに」と同情の目で見ている部分が

大なり小なりあるなあ、

と気づいてしまったので、なんとなく釈然としないんですよね。

 

でも、わたしだって

立場が違ったら無意識に他人に同情している場面がたくさんあるだろう?

ということを目の当たりにして、胸がぎゅっとつかまれるかのような思いがしました。

 

同情って優しさももちろん含むんですけど、

実はちょっと上から目線。

自分を基準として、それよりも相手が不幸に見えるから

「かわいそうに」と思うのです。

自分と同じ境遇と感じる人をかわいそうだなんて思う人はいません。

 

苦しんでいる親しい人に対して同情すらもせず放置、

っていうのは論外ですが、

同情もなかなか扱いが難しいものだな、と痛感しました。

なぜなら相手を対等だと思っていないという心理に自分で気づけないからです。

 

わたしは友人たちにわたしを対等だと思ってほしかった。

確かにわたしは辛い経験をして、弱っていて、誰かを頼った方がいい状態かもしれない。

だけど、他の人が今まで経験してこなかったような強烈な苦しみと戦い、

それでも生きていこうと、この経験を糧にしようと、遅々として進まない足取りにじれながらも努力しているんである。

それにどうか敬意を払って尊重してほしいんだ。

わたしは「苦しんでいてかわいそうな、助けてあげないといけない人」

ではないんだ。

 

そんな思いがある。

でも、こんな面倒で難しいことを他人に要求していたのか、と思うと

ああ、もう友人たちには頼れない、

という気がしているんですよね。

皮肉なことに親しいほどに、

そういう難しいレベルのことを無意識で要求してしまっている自分がいる。

そして、今のわたしは同情にすがってでもなんとか浮上しなければ、

という最弱の段階はすでに脱し、

しかもそのことに対するプライドすらも芽生えている。

プライドが芽生えた人間に、同情なんて必要ないのです。

 

普通に頑張って生きている人間には多かれ少なかれ必ずプライドというものがある。

 

そのことを忘れないようにしよう、と思った。

それはつまり、相手を尊重することに他ならないから。

 

もし今後、親しい人たちが辛い思いをするような場面に出会ったら、

わたしの目線から見下ろすのではなくて、

相手の想いに寄り添えるように、

相手の頑張りを敬い、称えられるように、

そんな人になっていたいな、と思いました。

とても難しいことだけど、意識してるのとしてないのでは全く違うはず。

 

きっとあゆむがそういうことに気づけるようにと

教えてくれたんじゃないかな、

と感じています。

こんな辛い思いをしなければ気づけなかったことがたくさんあって、

われながらばかだなって思うけど。

 

焦らずに少しずつ少しずつ、いろんなことに気づいていきたい。

 

みなさんの宝物がいつまでも守られますように。