祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

歩む想い 『死ぬ瞬間 死とその過程について』を読んで

こんにちは、ナユリゼです。

 

最近はこの本を読んでいました。

『死ぬ瞬間 死とその過程について』(エリザベス・キューブラー・ロス/鈴木晶:訳/中公文庫)

 

 

ちなみにこの鈴木晶氏の翻訳版は1998年に読売新聞社から刊行されたものです。

1971年に出版された川口正吉氏の翻訳版は100回以上重版されたという大ロングセラーでメインタイトルは同じですが、副題は「死にゆく人々との対話」となっています。

内容は同じですが、本書は時代に合わせて訳もスタイルも副題も大胆に変えて、読みやすく工夫されたようです。

わたしは新訳しか読んでませんが、特に読みづらさは感じませんでした。

(しかし、新訳もすでに出版されてから20年が経つのですね・・・)

 

以前もこのブログでちらほら触れていますが、

死と、それに関する悲嘆と真っ向から向き合う羽目になったり、

もしくはそれらを背負った人をそばで支えようとしたり、

という状況の中で

なんとかしようと知識を求めると必ず

エリザベス・キューブラー・ロスの著作や、彼女の挙げた説に出会います。

 

わたしはあゆむを失ってから比較的すぐに

彼女が論じたという「死の受容の5段階説」をあちこちで目にすることとなりました。

その5段階説を分かりやすく簡潔に紹介しようとするあまり、

下手すると内容をかなり自由に変えて解釈していたり、

内容も理解せずに項目だけで判断していたりするものもあるのだと思います。

そしてそれはある意味伝言ゲームのように、いつの間にか違うものになって伝わっていく。

 

勿論、物事をどう解釈するかは各々にゆだねられているし、

説が有名であればあるほど、それはいつしか独り歩きするのは分かります。

でも、わたしはそのことをこれほど痛切に感じたことは今までありません。

それほどに、今まであちこちで見て自分で思っていた内容と、

本書を読んでみた印象は全く異なっていて、純粋に驚きました。

先入観って扱い次第で本当に怖いし、

もったいないとも思う。

もう知ってるしー、と思っていても

実際に自分の目で見てどう感じるか確認してみることも時には重要だ。

 

本書は副題にもなっている「死とその過程について」の本です。

隅から隅まで余すところなく、そのテーマが詰まっています。

 

わたしたちは必ずいつかは死にます。

例外はありません。

 

なのになぜか

「自分に限って死ぬことは絶対にありえない」

と無意識下で思っているのが人間だ、という。

ふしぎですよね。でもたしかにそうかも、と思う。

 

この本には「末期患者へのインタビュー」がたくさん収録されています。

状況も病気の種類もそれぞれですが、

インタビューを受けている人物に共通しているのは

「死が目前にあること」。

 

これらを読んで感じることは人それぞれかと思いますが、

今のわたしが気づいたことがあって、それは

 死は特別なことではない

ということです。

だが、

死に至る過程は人それぞれということ。

その過程で何を思い、何を感じ、どのように「生きる」かは人それぞれ。

筆者は

「死とは長い過程であって、特定の瞬間ではない」と主張されていたとのこと。

それは大きく解釈すれば

ある意味生まれてからすぐに死への長い過程が始まる、

ということでもある。

どこか特定の時間からではなく、生まれた瞬間から。

 

インタビューを読むと、

それぞれ程度の差こそあれど死についての話をしているにも関わらず、

そこにはやはり「生」しか感じ取れないのです。

 一見当たり前に思えるかもしれないのですが、

「死ぬまさにその瞬間まではずっと生きている」のです。

もうすぐ死ぬということが判明していたとしても。

どんなに死を恐れていたとしても。

 

そして死は「生の終わり」を意味するというよりは

「生の一部」ともいえるものではないのか、という気もしてくるのです。

なぜわたしたちは生と死を分離して考えてしまうのだろう。

どうして死を恐れてやまないのだろうか。

それはお別れの辛さ(自分の肉体・大切な人・この世でやりたかったことなどとの)

というだけのことなのだろうか?

 

 それでも生きているから、

死ぬまで何かを思い、歩み続ける以外できない。

そしてそれはその人以外にはだれにもできない。

愛しさや尊さはそこにあり、

だからこそ死は喪失を意味するし恐ろしくも悲しくもあるのだろう。

 

 

みなさんの宝物が守られますように。