祈りとあの日のきらめく空と

初めての出産と、18トリソミーと診断された我が子あゆむのこと。           あゆむは2019.1.24にこの世に生まれ、そしてお空に帰っていきました。     地上で生きる天使ママの日記。

戻れる道はありません。

こんばんは、ナユリゼです。

 

このところブログの更新が非常にローペースになってまいりました。

なぜかというとネタがない、もっと言うと

書くのを躊躇するようなネタが多い、

というか。

 

わたしがあゆむを失って

「天使ママ」になって

4か月ちょっと経過して

細々と仕事も再開した。

 

一見、「回復」してきてるように見えると思います。

でもきもちのほうはなんだか複雑な様相となってきました。

そもそも回復ってなんなのか。

どこに戻ればいいんだ?と言いたいけど、面倒なので自問自答で済ませる。

 

子どもを失う、というとイメージ的には

 

悲嘆

絶望

未来を失う

いつまでも子どもを想う

 

という感じでしょう。

まさにその通りです。

 

だけどねえ、なんだかこういう単純な言葉では表せないことが

いっぱいいっぱいあるなあ、

とため息をつく思いです。

本当に何もわかってなかった、わたし。

なんていうか、そっちのほうがずっと辛いです。

なぜそっちのほうが辛いかというと、

「わたしは今現在生きているし、予定としてはこのまま生き続けなければいけない」

という事実があるからです。

 

ものすごく簡単に言うと

《自分の人としての価値を貶めたくない》

もう少し詳しく言うと

《いつも暗くてじめじめしてて”不幸だ”とひけらかすような人間と思われたくないし、

そもそもそういう自分がいると思い知らされることが繰り返し起こるのが耐えがたい》

 

それなのに悲しくて我が子に対する思慕が強すぎて、

上記のような、

「この先も生きていかなければいけないし

自分のこれまで生きてきた誇りもある自分」

とのバランスをどう取ったらいいのか全く分からない。

 

嫌な人間になりたくない、

優しい気持ちを無下にするような人間になりたくない、

という気持ちがあるから

人からの「好意による傷つく言葉」にも

ただ傷つくだけでどうすることもできないし

(その場で怒ったり、その言葉がなぜ傷つくのかを説明するなんて無理です)

 

自分が「元気に元通りに」なっていかないと

周りが困るだろうな、

という気持ちがあるから

「元気にふるまってみせる」くらいのことはする人も多いと思います。

 

それに対して

「しょうがないよね、みんなはこんな大きなこと経験してないんだし、

こんなに辛くて悲しいってことを知らないんだし、

わたしのほうが経験値が高いんだから

ちょっとくらい残念なこと言われても我慢してあげなくちゃ」

なんてあえて上から目線で考えてみたりします。

 

あと、もっと大変な経験をされている人の本やブログを読んで、

「わたしはずっと幸せな状況じゃないか。贅沢言っちゃいけない」

なんて言い聞かせて、もやもやとしたり。

 

そうやっていちいち人と比べてこころの中でずーっと

 

あんたはいいよねー

あの人よりはマシ

わたしのつらさが分かるもんか

わたしは恵まれてるんだから

悲劇のヒロインのつもり?

あなたに言われる筋合いないんですけど

 

などなどなどなど

分刻みで人との比較を考えているとなんかもう反吐が出そう

って思いますよ。

ああいやだ反吐が出そう。

わたしは結局こんな人間だったのか。

こんなに常に人を見下したり卑屈になったりしないといられない人間だったのか。

 

何か重大なことが起こると

人は醜い自分、自分が嫌だと思ってる自分と向かわざるを得ないのかもしれないですね。

 

不思議なことに

それでもあゆむへの愛は燦然とそこにある。

それは何事にも揺らがないのです。

 

なのに、

それは「自信」や「確固たる自分の魂」

には成り得てない。

 

そう成り得るときこそがまさに「回復」なのかもしれないです。

天使ママ、天使パパにとっての。

 

長い時間がかかるんだろうな、と思います。

もう戻りはしません。

もう戻れはしないのです。

そして、そのこと自体はすでに悲しいことでもないのでしょう。

 

 

皆さんの宝物が守られますように。